米国内科学会のご報告

2008年5月14日〜21日まで、診療所は代診の先生にお願いして休暇をとらせていただき、米国内科学会に出席して参りました。学会出席の第一の目的は、米国内科学会のフェローに選ばれ、その祝賀式典(Convocation Ceremony)に出席するためでした。

フェローになったということ

昨年10月に私は、米国内科学会のフェロー(上級会員)に選ばれました。米国内科学会には、日本からは、日本内科学会総合内科専門医であれば入会資格が与えれられ、まず、会員となることができます。会員から上級会員になるには、学会が認めるような業績と上級会員2名の推薦が必要となります。学会が認める業績というのは、論文や学会発表ばかりではなく、地域医療への貢献や、学校(医学部、看護学校、専門学校など)での教育活動、患者さんへの啓蒙活動、ボランティア活動なども含まれます。そしてもちろん学会での活動も評価の対象となります。私の場合、米国内科学会日本支部の仕事として、翻訳の仕事に携わっていたことも評価の対象としていただけたのかもしれません。
日本人では、私の前に209人の先生がフェローになっていらしたので、私は210人目の一人ということになります。10月にお知らせをいただいたわけですが、一通の手紙で知らせが来たというのではなく、9月のはじめごろに、「近いうちにきっといい知らせがありますよ」といった内容の手紙が学会の偉い先生から個人名で届き、そして、正式な発表が届くという段取りになっていました。このあたりは日本にはない習慣で面白いと思いました。正式に発表を受けると、祝賀式典への招待状が届きます。祝賀式典に出席するという返事はすべてインターネットで行い、また、式典で着るレガリアの帽子のサイズも測って申告しました。

旅行の計画

旅行の日程としては、ワシントンDCで開かれる学会に出席したあと、私が1990年から1992年にかけて留学していたコロラド州デンバーに寄り、お世話になった方たちにも会って帰ろうという計画にしました。当時独身だった私は、いろいろな方にお世話になりましたが、ボルダーに住んでいるFrank Konishi夫妻には特によくして頂きました。また、デンバーVAメディカルセンターのリウマチ科長のBob Janson先生には、リウマチ医としては駆け出しだった私に、リウマチ診療の指導をして頂きました。この方たちにはぜひとも会いたいと思っていました。研究の直接の指導をして下さったTom Santoro先生とMichiyo Tomita先生にこそお会いしたかったのですが、North Dakotaに移動されていて、ちょっと寄る時間はとれず、今回は再会は断念しました。ワシントンでの学会は5月15日から3日間開かれ、15日の夜に祝賀式典が行われる予定となっていました。

成田出発

5月14日に成田を発ちました。直行便で13時間のフライトでした。エコノミーの椅子はちょっと狭く、特に、ユナイテッド航空のシートはアメリカ人向けにできているのか、普通に坐ると足が床に届かず、太もものあたりが圧迫され、エコノミークラス症候群が発生する理由もわかった気がしました。

無事ワシントンDCに到着

ワシントンDCには無事定刻通りに到着。心配していた入国審査も、「サイトシーイング(観光)」という英語だけで通過することができました。空港には日本人のガイドさんに迎えに来ていただき、ホテルまでの間に、現地のことをいろいろ聞いておきました。ワシントンDC内での交通手段やおすすめの観光スポットやレストランなど、そしてチップの相場など、ちょっとした情報があるのとないのとでは旅の安心感が違います。
着いた日の夕食はウィラードホテルのカフェでとりました。雰囲気のよいカジュアルレストランといった感じのところでした。デザートのアイスクリームが特においしく感じました。疲れてすぐに眠れましたが、時差の関係だったのでしょうか早く目が醒めてしまいました。

いざ、学会場へ

朝食をホテルのレストランのバイキングでとり、家族は10時からのオプショナルツアーに参加することとなっていて、私は9時から学会に参加するため、シャトルバス乗り場へと向かいました。学会場はワシントンDCのコンベンションセンターで、日本でいえば幕張メッセや東京ビッグサイトのようなところです。学会場のメイン会場の入り口に新フェローを歓迎するボードができており、一人一人の名前が記されていました。私の名前があることも確認しました。
11時時過ぎからのセッションまで少し時間があったので、展示会場へ向かいました。そこには、軽食とコーヒーが用意されていたためか、たくさんの人が集まっていました。WelchAllynという聴診器メーカーの展示場でトリプルヘッドの聴診器を購入し、学会の記念にすることにしました。

学会のレクチャー

11時からのセッションでは、リウマチの最新治療を聴講しました。日本ではまだ市販されていないリツキサンという薬について特に聞きたかったのですが、それはほんのわずかしか扱われず、内容的には日本リウマチ学会の講演のほうが内容は濃い部分もありましたし、日本の学会も負けていないな、というのがこの時点の感想でした。

学会場で実技の指導

午後からは、Clinical Skills Training を受けてみることにしました。ここでは、少人数の実習形式で様々な実技の指導が行われていました。心雑音聴取の実習、関節注射の実習、中心静脈ルート確保の実習、筋骨格診察の実習などだ。それぞれ時間枠ごとに定員が決まっていて、入り口でパソコンを使って自分で予約するシステムになっていました。どれか一つは受けて帰りたいと思いましたが、ほとんど予約が埋まっていて、何とか予約できたPelvic Examの実習を受けることにしました。実習は仮設診察室のようなところで行われました。詳細は割愛しますが、午前のレクチャーでは日本の学会も負けていないなどと思いましたが、ここでアメリカ人の教育熱心さには本当に頭が下がる思いが致しました。中身の濃い実習時間があっという間に過ぎました。在宅の患者さんの診療に役立つものであり、この講義は私にとって大変有意義でした。

写真撮影?

3時半に写真撮影の予約をとっていたので家族と待ち合わせ、会場に向かいました。レガリアの受け取り会場に向かい、名前を告げると私の分がセットされ袋に詰めてありました。担当の方が着方を教えてくれました。写真撮影はすでに長蛇の列ができており、予約していたにもかかわらず、私たちはそこで長いこと待たされることとなりました。しかし、すぐ前の順番にいらしたのが信州大学の高橋将文先生のご家族でした。うちの娘よりひとつ年上の男のお子さんがいらして、時間とともに子供同士もうち解け、待たされる間も退屈せずに過ごすことができました。しかし、6時のセレモニーの時間になっても順番は来ず、結局セレモニー後に写真撮影ということとなりました。この辺の時間に対する感覚はアメリカ的だなと思いました。

祝賀式典

セレモニーは新フェローの入場で始まりました。アルファベット順に支部ごとに入場しました。会場の客席の中央に新フェローの席が用意されていて、家族や友人はその周りの席に坐っています。正面のステージには学会のマスターといわれる重鎮の先生方がこちらを向いて座っていらっしゃいます。席につき、会長のあいさつがありました。新フェローに対して祝福が述べられ、プライドを持って仕事をしてほしいということが言われました。式典を通して感じたことですが、彼らは、宗教の違いはあっても、神の存在を認め、信じているということです。医師という仕事は、神の存在の前で謙虚に人の命に向き合わなければならない仕事である、というような意味のこともおっしゃっていました。式典でも聖書からの引用が朗読されました。学会の中ではメンバー、フェロー、マスターと位の違いはあっても、神の前では人として平等であるという考えが根底にあるのかもしれません。だから、このような位付けを受け入れ、位の上の人に対しては一定の敬意を払うことが当然のこととして受け入れられているのかもしれない、と感じました。日本では同じ職種の中で、年齢や卒業年度以外の上下の格付けをするのを嫌うところがあるように思います。一長一短はあると思いますが、日本との「平等感」の考えの違いを感じました。

さて、式典も終盤に入り、司会者から、新フェローたちに各地区ごとに起立するよう促されました。アメリカでは州ごとに、海外では国の支部ごとにアルファベット順に呼ばれました。Alabamaから始まり、Alaska, Arkansas・・・Japan,・・・各支部ごとに新フェローが立ち上がるたびに、友人や家族から拍手や歓声が上がりました。そして、すべての新フェローが起立し、誓いの言葉を全員がそろって朗読しました。その後着席し、今度は周りに坐っている家族、友人たちに起立するよう求められました。そして、正面のマスターといわれる先生方も起立されました。そこで新フェローたちに改めて言葉が送られました。君たちは、君たちをここで囲んでくれている人たちに常に支えられています。ここにいる家族や、指導してくれた指導医、そして、ここにはいないかもしれないが看護師やスタッフ、そして患者さんたちみんなに支えられて今日までやってきたはずです。そのことを忘れずに、これからも患者さんのために尽くさなければなりません、といった内容のことが語られました。これはまさに私も思っていることであり、胸に深く刻まれる印象的な瞬間でした。フェローになっていなかったら、このような気持ちを深く胸に刻む機会もなかったのかもしれないと思うと、今回フェローになり、祝賀セレモニーに出席できたことは本当にうれしいことでした。

日本支部レセプション

翌日は、夜からの日本支部レセプションに出席しました。はじめは、日本人ばかりの飲み会のようなものを想像していたが、まったく違っていました。ホテルにいくつかあるBall Roomは各支部のレセプション会場となっていて、日本支部もその一つとなっていました。つまり、米国内科学会のオフィシャルなレセプションだったのです。そして、学会のマスターや世界の他の内科学会会長らが日本支部のレセプションにも招かれていました。会場は狭い会場で、立食でも窮屈なくらいでしたが、会話は弾み、大変和やかな会でした。その中で、私も、国際内科学会会長やAnnals of Internal Medicineの編集長にもごあいさつをさせていただきました。私一人で話しかけられる訳ではなく、このとき助けてくださったのが前田賢司先生でした。前田先生は、私と同じ埼玉県の上尾で開業していらっしゃいますが、私が開業医のお手本のように思い尊敬している先生です。また、妻もアメリカ人とよく話していました。アメリカ人は女性にはよく話しかけてくれるので、いろいろな先生と話をしたようです。その中で、Bob Gibbons先生とも知り合うことができました。彼はデンバーのVAメディカルセンターにもいらしていて、私のリウマチの師匠であるBob Janson先生のこともよくご存知だったので話が弾みました。広いアメリカで、私の18年前の友人をよく知る人と出会えるとは思いませんでした。このレセプションでも感じたことはアメリカ人の懐の深さとフレンドリーさです。学会のスタッフからは、おめでとうと何度も言われました。

歴史観の違い

学会とワシントンDCの観光で感じたことは、アメリカ人は歴史を大事にしているということです。歴史の長さは日本の方がずっと長いのですが、日本人にとって歴史は「あったもの」であり、アメリカ人にとっては「作ってきたもの」という違いがあるような気がします。歴史を作ろうとして先回りすることはよいとばかりは言えませんが、政策や計画に将来を見据え、将来振り返ったときどうだろうかといった展望があるのはうらやましいと思いました。デンバーの街の発展を見て感じたことでもありますが、日本では、たとえば政治家は、道路を作れば街が発展するだろうから道路を作るのがいいと言っています(少なくとも私にはそう思えますが)。そうではなく、街をこんな街にしたいから、高齢者がこのくらい増えて、そのためにはこんな施設が必要で、また、子供たちにはこんな教育を受けさせたいから、だから、それらを(縦割りでなく)総合的にとらえて、そのためにはこんな設備や道路や空港が必要なんだ、というような、将来の展望に基づく計画的な政策を日本の政治家にも行ってほしいと思いました。

なつかしのデンバーへ

私が住んでいた18年前と比べ、デンバーの街はすっかり様変わりしていました。家が建ち、ビルが建ち、スーパーが増え、高級なショッピングセンターに人があふれていました。街を走っている車も、高級車が多くなっていました。私がいたころののどかな雰囲気とはまったく違う町になっていました。

Frank Konishi夫妻との再会

日曜日、ロッキー山脈国立公園をドライブした後、ボルダーに住んでいらっしゃる、Frank Konishi夫妻との再会を果たすことができました。夫妻は18年前に私と一緒に撮った写真も大切にとっておいてくださいました。留学中のつらいときに、あの方たちの話を聞くだけで私は励まされましたし、頑張ることができました。そして、今、フェローに選ばれるという幸運に恵まれたましが、それは多くの人の支えのおかげで、中でもKonishi夫妻に助けていただいたことは本当に大きかったと思います。うかがったところ、ご主人はもう80歳になっていらっしゃいました。そのFrank Konishi先生は、栄養学の先生で、1970年代に、アメリカで肥満が社会問題となり始める前に、たとえばハンバーガーを1個食べたらどれだけ運動しなければカロリーが消費されないか、といったことを詳しく記載した本を出版されて、その本はベストセラーになったそうです。第二次大戦当時は、アメリカ人でありながら、敵国の祖先を持つという理由で差別も受けたそうです。戦後、大学で勉強してそれだけの成功をおさめるまでには相当のご苦労があったと思います。私の父より10歳くらい若いと思っていましたが、この機会に感謝の気持ちを伝えることができてよかったと思いました。

Bobとの再会

月曜日は半日観光の後、午後はBob Janson先生と再会する予定にしていました。しかし、実は日曜日まで連絡がとれておらず、月曜日の朝にオフィスに電話してアポをとろうと思っていました。すると、日曜日の夜にホテルの部屋に一本の電話が入りました。“This is Bob Janson.” という彼の声でした。前もって送った手紙にたまたまホテルの名前も書いていたので、かけてくれたのだそうです。それまで、彼とは電話のやりとりは一度もしたことはなかったのに、です。

翌日再会した彼は18年前とまったく変わっていませんでした。彼も私のことを、全然変わってないじゃないか、と久しぶりの再会を喜んでくれました。何といっても18年も経ってるのです。彼は、当時の仲間がそれぞれどこへ行って何をしているか細かく話してくれました。楽しい話も悲しい話もありました。

18年前、Bobにはリウマチの臨床を教えて頂きました。留学の本来の目的は、Tom Santoro 先生のもとで実験動物を用いて研究をすることでしたが、週に1日だけ、Santoro 先生がチーフを務めるリウマチ外来での研修が許されました。そこで指導にあたってくれたのがBobでした。研修といっても、アメリカの医師免許は持っていませんので、医学生の実習程度の内容でしたが、患者さんの病歴を取り、診察をし、所見を整理して、自分の考えをまとめて、指導医のBobにプレゼンテーションするというものでした。言葉のハンデもあり、そのトレーニングは、はじめは泣きたくなるほどつらいものでした。しかし、プレゼンテーションのうまい研修医を参考にして、Bobの上司でもあるWilliam Arend先生から頂いたテキストを読み、食らいつくように外来研修に通いました。最後の方は何とか少しまともにプレゼンテーションができるようになりました。考えてみれば、忙しい外来の中、Bobが私の面倒をみるのというのは厄介なことだったに違いありません。私の上司のSantoro先生がサバティカルでNIHに移ってしまってから、つまり、後ろ盾を失ってからも、私はずうずうしくも研修を続けさせていただきました。しかし、彼は教えてくれましたし、私も勉強をしました。最後には“You are very bright.”と最高のほめ言葉をくれました。その恩は私は決して忘れることはできませんでした。18年経って、今はアメリカの学会でも認められる内科医となって、感謝の気持ちを伝えることができ、本当にうれしく思いました。

 今回の旅を終えて

今回の旅では、多くの人に支えられて、フェロー昇格という誉れを受け、その祝賀式典に出席し、心に残る多くのメッセージを頂きました。さらに、なかなか会うことのできなかった大切な人たちにお礼の気持ちを伝えることもできたという、本当にすばらしい旅でした。

診療所の方は、一週間という長い間お休みをさせていただき、申し訳ありませんでした。気持ちも新たに、また診療を続けさせていただきます。

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